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長いことご無沙汰しました。

長いことブログの更新をさぼってしまいました。
その間にご訪問いただいたりコメントを書いてくださった方々、すみませんでした。ってここまで書いて、本当にブログって変だなあ???と思っています。誰が強制している訳でもないのに、更新しないと罪の意識にかられ、なんか自分にプレッシャーがかかっちゃう、、、、、ッさ肩の力を抜いて、、、、、

アメリカは皆様もご存知のように9月が新学期です。またまた一年が始まったって感じです。前にもお話ししましたが、私、大島文子と主人、チャールズ ナイディックは、ニューヨークのジュリアード音楽院でクラリネットと室内楽を教えています。今日はそのジュリアード音楽院のお話です。私たち二人あわせて、12人(クラリネット)の生徒をジュリアードで教えています。このうちアメリカ人は3人だけ、後はみんな外国から勉強に来ている子供たちです。クラリネットが大好きで、スゴークうまくなりたくて、アメリカに来た子たちです。ジュリアードには世界から子供たち勉強に来ます。
クラリネットの生徒の内訳は、ロシア人、マセドニア人、イスラエル人、カナダ人、中国人、ポーランド人
この中にジプシーの音楽家の子供がいるんです。国籍はマセドニアなんですが、血はジプシーなんです。この子が凄い!フォーックミュージックは何でもできちゃう。トルコ風、ギリシャ風、ブルガリア風、マセドニア風。すばらしい才能の持ち主です。前にもお話したんですが、http://blogs.yahoo.co.jp/ayakooshima/archive/2006/06/24
クラシック音楽って、すごーく民族音楽の影響を受けているんです。ジプシーのリズム感、歌い回し、テクニックにはハイドンも、モーツアルトも ベートーヴェンも ブラームスも、バルトークも、びっくりして、感動したはずなんです。出なければ彼らにあのリズムも旋律も無かったはずですから。
そして今、私も、びっくりしてます。
それぞれがすばらしい才能の持ち主!でも決しておごること無く、一生懸命、ひたすら音楽のことを考えている。
私も学ぶことたくさんあります。

人間の出会いに感謝!その2




日本は大雨で各地被害が出ているので、ブログのお友達が心配ですが、いかがお過ごしでしょうか?
日本に帰ってきてまだ青空を見ていないような気がします。一方ヨーロッパは猛暑だそうで、やはり世界の気候が狂っているのでしょうか? 本当に心配になります。
さて前回お話しした、ロベルトシューマン、没後150年ということで、きっといろいろなところで話題に上っていると思いますが、彼のことを話すにいたって忘れてはいけないのが、奥さんのクララのことです。
この二人大恋愛の末、結婚するんですけど、その裏にはすごい話があるんです。彼女の父親はその頃有名のピアノ教師であった、フリードリヒ・ヴィークという人で、彼は自分の娘クララを天才ピアニストに仕上げていきます。一方 父親をはやくなくした、作曲家、ロベルトシューマンは、安定した生活を願った母親の言いつけで、法学を学んでいたのですが、音楽への夢が捨てれず、そのピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークのもとに弟子入りし、ピアノの練習に励むことになります。そこでもう皆様もお解りのように、クララとロベルトが運命の出会いがある訳です。ロベルト20歳、クララ11歳でした。ってそんな11歳でもう恋愛????現代よりズートおませさんだったってことですね。そしてなんとそれから4年後、1834年に二人は、勝手に婚約をしてしまいます。そこでおこったのがお父さん!手塩にかけて、天才ピアニストに育てたと思ったら、ロベルトのとられてしますのです。せっかくこれからというときです。もしかしたら彼の念頭には、モーツアルトの親子のこともあったかもしれませんね。子供クララを神童にとしてヨーロッパ各地を演奏旅行させれば、名実共に父親フリードリヒ・ヴィークは世界に名をのこすことになるわけです。彼はこの二人の結婚を阻止するために、猛反対をするんです。どうしても認めてもらえない、ロベルトとクララ、そこで二人はやむおえず、このクララの父親を訴えます。裁判の末ようやく訴えが認められ、この二人が結婚できたのは、5年後、1839年のことでした。ロベルト、29歳。くらら20歳(それでも彼女はかなり若い!)
そのちょうど裁判のまっただ中、1833年にヨハネス ブラームスがハンブルグで生まれます。
そして、ブラームが生まれた20年後にこの3人の運命の出会いがあります。
1853年ブラームスは、シューマン家を訪れて、自分の作品をロベルトに、紹介します。
ロベルトは興奮します。彼はその若きブラームスの才能を絶賛します。もちろんブラームスより14歳年上のクララもその才能を認め、そこから、深い深いこの3人の友情が芽生えていくのです。
しかしその何年か前より、ロベルトは自分の精神の異常に苦しみ始めます。それを克服するために、バッハの研究に没頭しますが、其のかいもなく、ブラームスに出会った次の年、ライン川に投身自殺をはかります。そして其の後、精神病院に入ります。ブラーマスは、本当にけなげに、クララを助けます。ロベルトとクララの子供たちの面倒を見、クララとロベルトの家を守り、ブラームスはもう家族同然となります。しかし、ブラームスの心配を届かず、ロベルトは回復しないまま1856年、今からちょうど150年前の一週間後、7月29日に亡くなります。
今現在、この3人の手紙が残っています。しかし、ブラームスとクララの間でかわされた、手紙は全部残っているわけではなく、一説によると、多くが二人の手で、焼かれてしまったそうです。だから、この世にはクララとブラームスの音楽に関する手紙は残っているのですが、恋愛関係を立証するものは残っていません。二人の手で焼かれしまったことが事実だとすれば、恋愛関係だっただろうと想像していしまいまよね。でもこんな素敵な、手紙が残っているんです、これはブラームから、クララに書いたもので、もので、晩年の作品であるニ短調(1888年)のヴァイオリンソナタを書き上げた後のものです。
『私の二単調のソナタがあなたの指のもとで優しく夢見るように進行して行くのを想像するのはすばらしい事です。私は実際にそれを机の上におきあなたと一緒に静かにゆっくり保続音の茂みをとうって進んで行きました。私にとってあなたのかたわらにいる事が最高の喜びなのです。』
クララがモーツアルトのコンチェルトのカデンツ(クララが自分で作ったもの)を世の中に発表するときに、『このカデンツはあなたの影響を強く受けているので、私のものというよりあなたの作品と発表しないと嘘になります』とブラームスにいうと、ブラームスは『私のすべての作品の最良の旋律に『クララシューマンのよる』と銘記しなくてはならないほど、この才気ある美しいものはあなた無しでは私から生まれる事は無かったのです。
あなたが私から得られた何よりも、私がより多くのすてきな旋律を、作り出せた事をあなたに感謝しま
す。』
(学説的にいうと、このクララの旋律というのは、ロベルトが発表した、具体的に、クララへの愛情を示す旋律でロベルトの作品に多く使われています。もちろんブラームスはこの旋律のことも言っていると思いますが、それだけではなさそうです。。。)

この二人の男性に強烈な影響を与えた、クララ シューマンは1896年 77歳でこの世を去ります。そしてブラームスは一年後、まるでクララの後をおうように、1897年 64歳でこの世を去ります。

またもやこの3人の素敵な出会いに感謝です。

人間の出会いに感謝!その1

皆さんもご存知のように、今年は、モーツァールトの生誕250年です。そしてもう一人、ロベルト、シューマンの没後150年。ッでいつも思うことは、来年はモーツァールトの生誕251年で、ロベルト、シューマンの没後151年。なんです。だから、来年も今年もお祝いしたい私なんですが、(なんのこっちゃ)皆さんもご存知のように、クラリネット奏者にとって、最も重要な作曲家は、モーツァールトとヨハネス ブラームス ここでふたりの共通点は、すばらしいクラリネット奏者の友人がいたということ!
そのおかげで、彼らは多くのクラリネットの作品を作曲しました。
モーツァールトはコンチャルト、トリオ、そして弦楽カルテットとの五重奏曲をクラリネットのために書いています。バセットホルンのためのトリオ。そして、クラリネットクワルテットのスケッチが残っています。それを考えると本当にモーツァールトはクラリネットが好きだったようです。
一方ブラームスは、晩年、57歳の時、作曲への意欲を失ったこと感じ、もう作曲をやめることを宣言するのですが、その後にマイニンゲンの宮廷楽団のクラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏を聴き、そのすばらしい演奏はブラームスに再び作曲する意欲を奮い立たせます。そのおかげで、ブラームスは、晩年、トリオ、弦楽クワルテットとの五重奏曲、そして二つのソナタを作曲します。
いつも私はこの二人の作曲家の偶然の人間の出会いに、感謝をします。もしモーツァールトの親しい友人が、オーボエ奏者だったら、、、とか、ブラームスがマイニンゲンにいかなかったら、、、、、
その後の作曲家がクラリネットの作品を書くことが、モーツァールトへの、そしてブラームスへのあこがれと挑戦になるわけです。そのおかげで、その後もすばらしいクラリネットの作品が生まれています。
この次は、ブラームスと、シューマンとの出会い、そしてクララとの出会い!これも私は素敵なものだと思っています。この次はこの3人の出会いについて書きます。

明日日本に帰ります。


明日日本に帰ります。3ヶ月ぶりです。とにかく帰ったら音楽祭に(セミナー)の準備におわれます。人にあったり、電話をしたり。コンサートで演奏する曲を姉と練習したり、受講生に連絡を取ったり、私の夏休みは、アッという間に終わってしまいます。それでも私の友人は言います『好きな事をやって忙しいんだからいいじゃあない!』と。言われてみればそうなんですが、自分ではほとんど思った事ないんです。それが趣味と本職の違いかなと思うんですが、その違い非常にわかりずらいですよね、、、
日本にかえっての演奏会のおしらせです。北軽井沢のミュージックホールで8月4日6時からです。
モーストリーモーツアルトにも記載されているようです。クラリネット三昧!主人、チャールズ ナイディックと私、大島文子、韓国のクラリネット奏者、ハナキム氏、3人の演奏をお楽しみいただきます。
詳細は。http://www.nms21.com/index.htm#79211830をご覧下さい。

マルボロ音楽祭のこと


おととい主人をアメリカのヴァーモント州で行われるマルボロ音楽祭に、車で送っていきました。NYから、車で、3時間半くらい北上したところにあります。実は主人のチャールズナイディックは車の運転ができません。免許持ってないんです。だから前にも書いたサラソタの音楽祭もそうなんですが、私が運転手となるわけです。今回は夜中に走って次の日帰ってくるので、帰り一人じゃ大変だろうと、ブログでおなじみのhttp://blogs.yahoo.co.jp/soho_new_yorkのわたしさ~んが一緒に行ってくださいました。
マルボロ音楽祭は世界で最も知られている音楽際と言っても言い過ぎで無いとおもます。ヴァーモント州の、山の中に(かなり低いけど)あるマルボロ大学を借りて行われる音楽祭で、1951年ヴァイオリニストのアドルフ ブッッシュ[http://www.angel.org/busch/background.htm/ ]とピアスのルドルフ ゼルキン[http://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_Serkin/]によって始められた音楽祭です。その後ゼルキンは1999年亡くなるまで音楽監督を続けました。そのその間にフルートのマルセル モゼールや、チェロのカザルスなどおおくの音楽家が参加をしました。現在では、ピアニストのリーチャード グッドと内田光子さんが音楽監督を兼任なさっています。この音楽祭の特徴は講師が室内楽をコーチングするのではなく、講師も一緒になってアンサンブルを組んで練習しながら意見を交わしながら、音楽の作り方や、作品の解釈などを学んでいきます。今年の主人の組は、エリオットカーターの木管5重奏や、コープランドのアパラチアの春の室内楽ヴァージョンで生徒たちやほかの講師と一緒に演奏会に向けて練習をします。講習会は6週間ほどで、その間に演奏会が10数回おこなわれます。ですから講師も生徒も次から次へと新しい曲を作って演奏して行きます。このシステムは講師にとってはかなり大変なものですが、生徒にとってはズバラしい経験なっていつまでも心に残っているはずです。ここの生徒に選出されるのもかなり大変で、結構ポリティカルなものが強く、生徒たちもちょっと選ばれたことでプライドが高くなっちゃう子もいたりして、うちの主人なんかはそういうのを少し不満におもっているようですが、ほとんどの子は純粋に音楽を学びたいのですから、少々は許しましょう。
演奏会はいつも満席、これを楽しみにしている聴衆が世界各国からいらっしゃいます。
又自分の音楽祭の話で申し訳なのですが、今年からクラリネットアンサンブルをやるんですが、このとき我々もマルボロみたいに生徒と一緒になって吹こうと思ってます。でも我々のはあくまで楽しく!ミスタッチも、ピーもありで、、、、
私は来週、日本にかえります。私の音楽祭もたくさんのお客様に恵まれますように!!

プロフィール

Ayako Oshima

Author:Ayako Oshima
NY在住のクラリネット奏者,大島文子です。音楽の事,クラリネットの事、主人チャールーズ ナイディックの事をNYから発信して行きたいと思います。

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